天祥寺縁起
松平忠明公
天祥寺は山号を海東山とし、臨済宗妙心寺派(本山は京都花園)の禅寺であります。
江戸初期の寛永年間、和州郡山にて創建され、開山は真覚諦観松蔭岳禅師大和尚、開基は松平忠明公です。
松平忠明公は、長篠の戦で長篠城を死守し織田徳川連合軍を勝利へと導いた奥平信昌を父、徳川家康の長女亀姫を母として、天正十一年(1583)に四男として三河新城にて生を受けた人物であります。
忠明公は、天正十六年(1588)に兄である家治・忠政と共に家康の養子となり、松平姓を賜ります。兄家治が文禄元年(1592)十四歳で亡くなると、忠明公は、その領地・小幡七千石を引き継いだのでした。
更に慶長七年(1607)には、作手一万五千石城主となります。その当時に帰依した松蔭和尚を招き入れた小庵が、寛永二十一年 (1644)忠明公没後[戒名・天祥院殿心巌玄鉄大居士」に、天祥寺と改められたのでした。
また、忠明公は生前、兄の供養のため桃林寺を、祖父の奥平貞能の供養のため大蔵寺を建立し、今は廃寺となった龍源寺と、天祥寺を加えた松平四ヶ寺は、いずれも松蔭和尚が開山で、松平家の移封毎に播州姫路、奥州白川、羽州山形、備州福山、勢州桑名等、寺も転じたのであります。 文政六年(1823)九代忠光の時代に桑名より、忍藩十万石への移封尚が最後となり、現在の地に天祥寺が建立されたのは天保八年(1837)で、この地で明治維新を迎えます。その当時は立派な寺で、本堂・位牌堂・将軍堂等もあったとされ、門柱で臼ができたとの言い伝えが残っています。
明治維新を迎えると、栄華を誇った松平下総守家菩提所は、廃仏毀釈・廃藩置県等の影響もあり衰退し、明治六年には忍城取り壊しと時を同じくして、庫裡・長屋門を残して取り壊されました。元来松平家と十軒程の家老武士によって護持されてきた天祥寺でしたが、松平家をはじめ其の殆どが寺を離れ、第二次大戦後にはすっかり荒廃し無住となり、廃寺寸前となりました。この間に歴代藩主の画像・歴代住職の頂相・鉄眼版大般若経・書物・高僧や雪舟の手による墨蹟など多くの寺宝は散逸してしまいました。
そのような状況の昭和五十二年、開基を同じくする本山塔頭天祥院の住職が参拝に訪れ、その荒廃ぶりに驚き、直ちに再建に取り掛かりました。その後四十年余、新加入の檀家も増え、本堂・庫裡・客殿の建設と墓地拡張等、境内整備も進み、永代供養墓「慈光」も建立し、現在に至っています。 尚、かつての隆盛を物語る遺産として辛うじて現存する釈迦涅槃図は、近年修復を行い、毎年二月十五日の涅槃会法要に開帳し、多くの人が参拝に訪れます。